« 大分・国東半島セーリングフェスティバル2011 第2回むさし南風杯ヨットレース | トップページ | 第39回 阿波踊りヨットレース2011 - ONE FOR ALL, ALL FOR ONE  »

2011年6月 2日 (木)

タイタニック号進水100周年記念式典 - Titanic centenary celebrated in Belfast

『タイタニック号進水100周年記念式典』
33423titanic  2011531日はあのタイタニック号〈正式名称はR.M.S.Royal Mail ShipまたはSteamerTitanic〉が建造されて100年になるそうである。建造地である北アイルランド・ベルファスト(Belfast)の造船所では100周年を記念し盛大な式典が催され、タイタニック号と共に沈んだ乗客乗員の遺族や造船に携わった作業員の子孫、近くの小学校の児童らが港に集まり黙とうをささげた。
 しかしながら、戦争を除けば世界最悪となる海難事故を起こしたタイタニック号を記念するというこの催しには「賛否両論」があったようである。
 
 それにしても、当時の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故が文明の進歩に楽観的な希望をもっていた欧米社会に大きな衝撃を与えたこと、また事故をきっかけとして、船舶・航海の安全性確保のための「
1914年の海上における人命の安全のための国際条約」の締結、無線通信の普及に繫がったことは忘れてはならないことである。
 犠牲者乗員乗客合わせて1,513人の沈没事故は格好のモチーフとしてたびたび映画化がされ、最近では1997年のレオナルド・デカプリオ主演作(同年アカデミー作品賞受賞)が大ヒットしたのは周知のとおりである。201161日 読売新聞 等)

1911.5.31- 北アイルランド・ベルファストのHarland and Wolff’s Belfast yard造船所で建造
1912.4.10- イギリス・サウサンプトン港の専用埠頭オーシャンドックからニューヨークへ向け処女航海に出航
1912.4.14-
 23:40 北大西洋・ニューファンドランド沖で見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見
1912.4.15-
 00:15 遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を要請
1912.4.15-
 02:20 衝突から2時間40分後、船体は2つにちぎれ海底に沈没

造船計画
1_rms_titanic_1 2_titanic_plans 3_761px10_titanic_28129 4_titanic_rudder_before_launch
5_titanicfirstclassreceptionroom 6_rms_olympic_promenade_deck 7_gsc4 8_706pxgrand_staircase


航行

Rms_titanic_3  1912410日に、タイタニックはイギリスのサウサンプトン港にある専用の埠頭であるオーシャンドックからニューヨークへとむけた処女航海に出航した。エドワード・J・スミス船長の指揮下のもと乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せており、一等特別室は、6日の航海の費用4,350ドルと伝えられている。
 
サウサンプトン港出航の際、タイタニックのスクリューから発生した水流によって、客船ニューヨークと衝突しそうになったが、この時は間一髪で回避できた。そのままフランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウン(現コーヴ) に寄港し、アメリカのニューヨーク港に向かった。さらにサウサンプトン港出航の際、双眼鏡の収納ロッカーの鍵の引き継ぎがなされないまま鍵を持った船員が下船してしまい、ロッカー内にある双眼鏡を取り出せなくなったため、周辺の監視を、双眼鏡を使わずに肉眼で行うしかなくなった。これがのちに致命的な影響をもたらす一因となったとする説がある。
 
14日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニックは同日に6通の警告通信を受け取っている。しかし、800pxvergleich_titanic この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、さらに混線があり近隣を航行するリーランド社の貨物船「カリフォルニアン」からの流氷群の警告も見過ごされてしまった。タイタニックの通信士たちは前日の無線機の故障もあり、蓄積していた旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。
 
4142340分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。この海域は暖流と寒流がぶつかりちょうど境界面に位置するため、世界的にも海霧が発生しやすい海域として有名であり、タイタニック号が氷山に遭遇したころも直前まで海面には靄が漂っていた(当直見張員フレデリック・フリートの証言による)。また双眼鏡がなく(但し、双眼鏡自体は『遠くにあるTitanicmap 物を見る』機能しかもっていない為、タイタニック号が置かれた状況下ではあっても役に立たなかった可能性が高い)、月のない星月夜の海は波もなく静まり返っていたため、氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときには手遅れだった(タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い)。

回避行動
 
見張り員のフレデリック・フリートはただちに鐘を3回鳴らし、ブリッジへの電話をつかんだ。応答したのはジェームズ・ポール・ムーディ6等航海士だった。

Titanic_icebergフリート「Is anyone there!(訳:だれかいるのか!)」 
ムーディ「Yeswhat do you see? (ああ、どうした?)」 
フリート「Iceberg rightahead! (真正面に氷山!)」 
ムーディ「Thank you. (ありがとう)」
 
 
ムーディはただちに一等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックに報告した。マードックは即座に「Hard Starboard!(取り舵一杯![1]」と操舵員のロバート・ヒッチェンスに叫び、それからテレグラフ(機関伝令器)に走ると、「Full Astern(全速後進)」の指令を送り、喫水線下の防水扉を閉めるボタンを押した。だが、回避するにはあまりにも時間が足りなかった。氷山まではおよそ400450mであったが、22.5ノット(およそ秒速11.6m)から停止するまでに、実に1200mもの距離が必要だったからである。船首部分は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。氷山は右舷にかすめ、同船は停船した。
Iceberg_and_titanic   
このとき、左へ舵を切ると同時にエンジンを逆回転に入れ衝突数秒前船舶の操船特性である「キック」を使うため右へ一杯舵を切った。舵は速力が高い方が効きやすいので、「速度を落としたために、ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」という説もあるが、あくまで結果から見た推論である。そもそも、衝突時にはかなりの速度が出ていたことが推測される上に、氷山発見から衝突までの時間はせいぜい30秒(説によっては氷山を前方100200mほどまで発見できなかったため10秒しかなかったとも)程度しかなかったため、速度はほとんど変化せず、舵効きにも影響しなかったようである。
 
映画などの影響によって、防水扉の閉鎖は衝突後だったと誤解されがちである。同様の理由から、ボイラー部員は我先に逃げ出したとの誤解もあるが、ボイラー部・機関部員で実際に持ち場を離れた者は非常に少ない。のちに浸水状況の悪化から、ベル機関長は彼らにも職務からの解放を命じたが、ほぼ全員が自ら最下甲板に留まり、最後の瞬間までボイラー稼働・排水・電力供給などを続けた。
Stc3b6wer_titanic   
衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず船体の傷はせいぜい数インチ程度で、損傷幅を合計しても1m²程度の傷であったことが後の海底探索によって判明している。
 
だが、右舷船首のおよそ90mにわたって断続的に生じた損傷は船首の6区画に浸水をもたらした。これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ、船首から船尾に向かって浸水が拡大していった。また、第六区画であった第五ボイラー室の損傷は軽微で、ポンプによる排水も成功したように見えたが、第五・第六区画間の防水隔壁が突如崩壊したことによって完全に浸水した。これは事故前に発生していた船内火災の影響と言われているが、前部5区画が浸水している時点で沈没は確定しており、いずれ上部から浸水することは免れなかったことから、損傷そのものが無視されることが多い。一方、ボイラーに冷水が触れたことで水蒸気爆発が起き、船体の側面に開いた巨大な穴から発生した大規模な浸水が致命的であったとする説が有力であったが、船体調査の結果ボイラー付近にそのような破孔は確認されなかったため、誤りであるとされる。これは衝突後ボイラーを稼働させながらも、海水の流入に備えて蒸気圧をあらかじめ下げておいたボイラー部員の決死の尽力の結果である。
Titaniclifeboat   
沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で分かっている。現在最も有力視されているのはリベットが抜け落ちたという説である。
 
タイタニック船長・スミスは海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、効果は薄かった。日付が変わった415015分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか1017海里(約1830km)ほどの距離に、先立って流氷群の注意電報を送っていたカリフォルニアンが停泊していたが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。また、カナディアン・パシフィックの「マウント・テンプル」も受信し救助に向かったが、タイタニックから20km未満まで来てから、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れて明かりを消して停船し、周辺海域に存在しないよう装った(査問委員会に提出された航海日誌では48海里(約88km)と記録されている)。複数の乗客が、タイタニックの折れる音を聞いたと証言している。
 
その他にも、「バーマ」(距離70海里)、「フランクフルト」(距離150海里)、「バルチック」(距離240海里)など様々な船が遭難信号を傍受しているが、どれもタイタニックから遠くを航行しており、救助にいけない状態であった。姉妹船オリンピックに至ってはタイタニックから430海里(約800km)も離れていた。
 
結局、およそ50海里(約90km)離れた地点にいた客船「カルパチア」が応答しボイラー破損のリスクを負いながら全速(従来14ノットのところを17ノット)で救助に向かったが、船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没から2時間40分後(タイタニック氷山衝突から沈没までと同時間)の午前4時であった。ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中からCQDに代えて使用したが、「SOSを世界で初めて発信した」とする説は誤りである(19096月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。

脱出・救命
Titanic_rescue  
沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。
 
しかし、当時のイギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく(規定では978人分)、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった(これは、タイタニック起工直前の19091月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故が影響したといわれる。リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になり、救命ボートの規定数が少なく設定されていたという)。
 
また、定員数を乗せないまま船を離れた救命ボートも多い。これはライトラー2等航海士を含め、多くの士官がボートをダビット(救命ボートの昇降装置)に吊り下げたまま船が沈没することを最大の恥辱と感じていたため、できるだけ早く海面にボートを下し、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、タイタニックの乗組員の多くが未熟で、ボートフォール(救命ボートを吊るロープ)の扱いに慣れていなかったことや、ダビットが乗員の重さで曲がってしまうことを恐れたためともいわれる(実際にはボート設備の施工時に、定員65人乗りのボートに70人乗せてテストを行い良好な結果を得ていたが、その結果を船員に周知しきれていなかった)。最初に下ろされた中には、定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。
New_york_times  
結局、1500名近い乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の220分、轟音と共にタイタニックの船体は2つに大きくちぎれ(海中で3つに分裂)、ついに海底に沈没した。沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側にしがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった1艘しか溺者救助に向かわなかった(左舷14号ボート)。そのボートは救助に向かうため、再編成をしたロウ5等航海士が艇長のボートであった。しかし、ロウ5等航海士が準備を整えて救助に向かった時、沈没から既に30分は経過しており、もはや手遅れだった。4月の大西洋は気温が低く、人々が投げ出された海は海水温零下2度。乗客の大半は低体温症などでほとんどが短時間で死亡(凍死)したと考えられる。低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したとする意見もある。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。

出典:WikipediA:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF_(%E5%AE%A2%E8%88%B9)


Photos pdf (5 files): Page01-15Titanic.pdf」をダウンロード Page16-33Titanic.pdf」をダウンロード Page34-41Titanic.pdf」をダウンロード Page42-52Titanic.pdf」をダウンロード Page53-63Titanic.pdf」をダウンロード
Photos Power Point (for Open Office Impress, PowerPoint Viewer) 直接クリックで開かない場合、一端ダウンロードした後に開いてください: http://www.csudamvela.org/descargas/6-RM/2-not/017-Titanic.pps

関連記事:2011-02-26Presentations of Nautical Topics from URUGUAYhttp://ventoorientale.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/from-alberto-da.html

|

« 大分・国東半島セーリングフェスティバル2011 第2回むさし南風杯ヨットレース | トップページ | 第39回 阿波踊りヨットレース2011 - ONE FOR ALL, ALL FOR ONE  »

This and That/ SoftWare-Download」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 大分・国東半島セーリングフェスティバル2011 第2回むさし南風杯ヨットレース | トップページ | 第39回 阿波踊りヨットレース2011 - ONE FOR ALL, ALL FOR ONE  »